Time of Grace 「仕える喜び」
マーク・ジェスキー著(訳:MLP Japan)
はじめに
「自分は人の下で働きたくないので社長になりたい。」という思いが何万人という人々を起業へと駆り立ててきました。こうした欲望は悪いものではありません。多くの、いわゆる「普通」のアメリカ人が、このような思いを抱いて自宅の地下室やガレージで新しい商品を開発したり、サービスを提供したりして、会社を起こしました。
しかし実際のところ、会社の経営者であったとしても上司は存在します。それは自分の顧客です。お客様を満足させなければ、会社はつぶれてしまうのです。
人に仕えること。それは、何でも自由にできるほどお金持ちになるまで、我慢してやらなければいけないことなのでしょうか。いいえ、違います。私たちが人に仕えることは、神が私たちに求めておられることです。神は、神を信じるすべての人が仕える態度を身に付けることを望んでおられます。これは裕福な人、貧しい人、身分の高い人、低い人、全てです。それは今も、後も、永久に変わりません。
喜んで人に仕えることは後から学んで身に付けるものです。それは簡単なことではありません。少なくとも私には仕える訓練が必要です。あなたも訓練ができるように、私は毎日ひとつずつ読み進められるデボーションを書きました。
「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい」(マタイの福音書20章26~27節)
イエスはこのようにおっしゃっています。
牧師 マーク・ジェスキ―
1.私の救い主
聖書に書かれた話の中で子どもが最初に好きになるのは、イエスの行なった力強い、素晴らしい奇跡ではないでしょうか。イエスは海を支配し、嵐を静め、病気を癒し、悪魔に打ち勝ち、死者をよみがえらせました。イエスにできないことは一つもありません。イエスはバットマンやスーパーマンよりもすばらしい、スーパーヒーローなのです。
しかし、子どもたちが少し大きくなって、イエスをもっと知るようになると、イエスの謙虚に仕える態度をより深く理解するようになります。イエスは十字架にかかる数時間前に、人々に仕えるリーダーとなる大切さを弟子たちに教えられました。それはとても心に残る行ないでした。
イエスは弟子一人ひとりの前でひざまずき、たらいに水を入れ、手ぬぐいを取って彼らの足を洗ったのです。イエスは私たちに仕え、私たちのために十字架上で苦しみ、私たちを救ってくださいました。この謙虚に仕える姿は、私たちが毎日どのような態度で生活したら良いかを教えています。
馬小屋でお生れになった
私は今朝、出産した知人の女性が入院している地元の病院を訪ねて、とても驚きました。なんという快適な場所でしょうか。心安らぐ音楽や照明、気配りの上手な看護師、経験豊かな産婦人科医、どんな状況にも対応できる最新の電子機器がそろい、子どもを産むために最適な環境が整っていたのです。新しく生まれた赤ちゃん一人ひとりのために手作りの帽子と靴下が用意され、その上食事がとても美味しいのです。
神であるイエスがこの地上に人の子としてお生まれになった時には、このような素晴らしい環境ではありませんでした。そこは、みすぼらしい馬小屋でした。人のためにすら作られていない場所で、イエスは人間としての一生を始められたのです。イエスを身ごもっていたマリヤと夫のヨセフはまだ子どもの誕生を予想していなかったようで、手作りの靴下も毛布も持ち合わせていませんでした。
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカの福音書2章6~7節)
イエスのこのような謙虚な誕生は、父なる神によって計画されたものでした。これはイエスがこの世に遣わされた目的が強く現れています。イエスは私たち人間の生活すべてを経験するために来られました。イエスは私たちと共に苦しみ、私たちのために苦しむために来られました。イエスが馬小屋でお生まれなったのは、私たちが天国の素晴らしい住まいで永遠に生き続けることができるためなのです。
律法の下に生まれる
法廷で、被告人に対して最初に行われることは罪状認否です。被告人に対する正式な起訴内容がここで提示されます。
聖書は、今までに生きた全ての人間が神の法廷に立たなくてはならない、と繰り返し教えています。神の聖なる情状酌量がなければ私たちへの判決は全て同じです。裁き主であり、この世の創り主である神には、全ての人間に対する聖(きよ)い義の基準があります。神の律法、つまり神の御心は、聖書によって全ての人に知らされています。全ての人間がその戒めを破りました。ですから、人類は一人残らず有罪なのです。
イエスが誕生し、罪のない人生を送り、私たちの身代わりとして死んでくださったからこそ、有罪だった私たちは神の前で無罪となりました。イエスは私たちと同じ人となって神の戒めに従順に従い、この世の罪の呪いの下で生きてくださいました。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラテヤ人への手紙4章4,5節)
なんという恵み深い謙遜な行為でしょうか。父なる神と共にこの世の初めから存在し、この全宇宙をお造りになった神なるイエスが、私たちに永遠の命を与えるというたった一つの目的のために死にまで従ってくださったのです。イエスへの信仰によって、あなたはイエスの聖さを自分の聖さとすることができます。信仰によってあなたは聖いのです。
誘惑をお受けになった
救い主イエスが私を救い、愛してくださっているということは、私が弱い時でも、イエスは私を嫌わずにいてくださるということを示しています。イエスは私の罪を嫌い、罪に対する責任は問いますが、私を嫌うことはないのです。なぜかというと、イエスご自身も悪魔の誘惑と闘わなくてはならなかったからです。正しいことをするのがどんなに難しいか、イエスもよくご存じなのです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(へブル人への手紙4章15節)
考えてみてください。イエスは、サタンの巧みな試みを受けるほどに、私たちを愛してくださいました。イエスは一度も悪魔に屈しなかったのです。イエスが一度も誘惑に負けず、神の律法を全て守ったという事実こそが、十字架上での犠牲を完全なものにしたのです。
悪魔との苦しい戦いの経験により、イエスは私たちに対してあわれみを持つようになられました。
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(へブル人への手紙2章18節)
あなたの今の弱点はなんですか。あなたが悪魔からの誘惑に打ち勝つために、今日イエスに助けて頂きたいことは何でしょうか。
仕える態度
私は、とても重い病気にかかっている女性と一緒に祈ってきました。病院の廊下で、その女性の息子としばらく話をしました。私は彼に言いました。「ジョン、お母さんはとても重い病気なのだから、しばらくは君が家の掃除や食事の支度をしなくてはいけないよ」。すると彼は頭を振って、「そんなことをするのは僕らしくない」と言って断ったのです。
私たちはみな、もてなしを受けるのが好きです。特別扱いされて当たり前だと思いがちです。私たちが周りの人のために喜んで何かをしてあげるのは、本心からかけ離れた考えです。他人に仕えるというのは「自分らしくない」のです。それは後から学んで身に付ける態度です。その態度を一生学ばない人もいるのです。
イエスご自身は私たちのヒーローです。イエスはある時おっしゃいました。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイの福音書20章28節)
全能の主なる神が他の人のためになることに満足を感じておられるなら、私も同じように満足を感じられるのではないでしょうか。与えることで喜びを見出すのです。それこそ、イエスの生き方ではありませんか?与えることで何かを得るのです。
神と人間の和解
「あのティラミスは死ぬほど美味しい」「あの子の世話は死ぬほど手がかかる」「恥ずかし過ぎて死にたい」など、私たちが普段の生活の中で、「死ぬ」という言葉を何気なく使っていると気が付いたことはありませんか。
イエスが十字架にかかって死なれたのは、死ぬほど美味しかったからでも、手がかかったからでも、恥ずかしすぎたからでもありません。最近ニュースでよく耳にする自爆テロの犯人のように、悪意に満ちた心で自分の命を投げ出したのでもありません。イエスは、罪を犯した全人類を死から救い、永遠の命を与えようとなさったのです。その目的を達成するために、ご自身が敵によって痛めつけられ、殺されることをお許しになりました。
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」(へブル人への手紙2章17節)
イエスがへりくだって人間としてお生まれになったのは、その体を私たちに与えて私たちを救うためだったのです。イエスの血によるあがないは、もうあなたのものです。つまり、神とあなたはもはや敵同士ではなく、イエスのおかげで和解し、神の子どもになることができたのです。これは素晴らしいことです。
2. 私の家族
イエスが喜んで私たちに仕えてくださった、というのは美しい事実です。でも話はそこで終わりません。イエスは、将来あなたを天国につれて行くだけではなく、「今」あなたがイエスに似た者になるよう助け、人々の役に立つ存在になるように変えてくださいます。
仕えることに喜びを見出すことは、家庭以外ではなかなか身に付きません。大抵、人は外では気取ったり、見返りを得ようとしたり、虚勢を張ったりします。喜んで人に仕える姿は映画などでもあまり好意的に取り上げられません。私たちがほめたたえがちな人の外面的な美しさや強さは、自己中心的なものが多いと思いませんか。
仕える態度はどこで教えられ、身に付けられるのでしょうか。それは、なんといっても家庭です。父親を尊敬できなければ、おそらく上司も尊敬できないでしょう。まず母親に仕えることを学ばなければ、おそらく人によく仕えることはできないでしょう。両親が家庭で子どもに「仕える喜び」を教えるのが早ければ早いほど、イエスのように喜んで人に仕える子どもになります。
お互いに仕え合う
先日、私の家族や親せきが集まった時、、お互いの恥ずかしい写真や動画を見せあい、大いに盛り上がりました。親戚が私の恥ずかしい写真を見て一緒に笑っていたのは、単純に面白かったからで、私をバカにしていたからではないことを願います。
少し謙虚になることは悪いことではありません。サタンは、私たちの自己中心的な思いをふくらませようと常に働いています。ですから自分のエゴを小さくして、他人を尊重するのは良いことなのです。使徒パウロは次のように書きました。
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペソ人への手紙5章21節)
相手をほめたり、なぐさめたり、世話をする訓練をするのに家庭はとても良い場所です。家庭は自分以外の人を自分よりも大切に扱う練習をするのに最適です。自分の心を広げて身近な人の生活をよりよくするために奉仕するのです。もしあなたが自分の両親、兄弟、子どもを無条件で愛せなければ、おそらく他の誰をも愛することはできないでしょう。
どうしてそんなに大変なことをするのか、ですって?もちろん、救い主イエスへの感謝と尊敬を表わすためです。
仕える妻
2世代前のアメリカでは結婚した女性は、例えばミセス・ジョン=スミス(Mrs. John Smith) のように男性の名前にミセスを付けて呼ばれていました。1世代前にはそれが変わって妻の名前にミセスを付けてミセス・ジュディー=スミス(Mrs. Judy=Smith)と呼ばれるようになりました。その後には女性が結婚後も旧姓を名乗るようになりました。そして最新のトレンドでは結婚という面倒な手続きはせず、一緒に住むだけとなっています。
こうした時代において結婚制度というものは、古めかしい制度、悪く言えば奴隷制度のようだと思われるでしょう
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ人への手紙5章22節)
このような言葉を聞くと、最近の人たちはびっくりします。
そうです。神は本当にこのように命じておられるのです。それは三位一体の神が封建的だということではありません。神は結婚を、優雅なダンスを踊る時のように、優美に機能するように定められたのです。まず夫が親切に優しくリードし、妻が愛情深く献身的にそのリードに身を任せ、夫をサポートするのです。
それは男性が女性よりも賢く、大切だからそうするのではありません。妻の皆さん、あなたが夫に従うのは、夫のためだけではありません。「あなたは主イエスに従っている」と思って夫に従うのです。イエスはあなたに嘘をつきません。イエスは決してあなたを傷つけることはありません。覚えておきましょう。私たちは、人に仕えられる時ではなく、人に仕える時にこそ喜びを感じるのです。
仕える夫
リーダーシップとは自分が欲しいものを手に入れること、人を支配すること、自分の思い通りにすることだと思われています。しかしキリストのリーダーシップは、仕えるリーダーシップです。その目的は、自分以外の人の人生をより良くすることです。夫はまず第一に、妻や子供の生活を守る責任を負っています。
つまりこういうことです。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ人への手紙5章25節)
夫たちのお手本が誰なのかに注目してください。イエス・キリストのように愛するのです。
イエスは、ご自身の命よりも、私たちが罪のゆるしと救いを受けることを何よりも優先してくださいました。命を投げ出すほど、つまり文字通り「死ぬほど」私たちを愛してくださったのです。
夫の皆さん、神はあなたの奥さんに「夫にリードしてもらいなさい」とおっしゃっています。夫のあなたは、奥さんに分かる形で、イエスのようなリーダーとしてふるまっていますか。自分の快適さや好みを優先していませんか。奥さんはあなたに、こき使われていると感じていないでしょうか。それとも力づけられ、励まされていると感じているでしょうか。
子どもに仕えることを教える
人に仕えることを子どもに教えるのは、どうして簡単ではないのでしょうか。子どもが人に思いやりをもって話したり行動したりするように教えるのは、なぜ難しいのでしょうか。私も、つい自分の子どもに注意したくなりますが、私が幼い頃、父親に自分のわがままを叱られた時のことを思い出し、平静を保っています。
仕える心を子どもに教えるのはとても難しい事です。しかしこれは親にとって避けては通れない大切な仕事です。神はそれを実行するための導きと力を与えてくださっています。
「〔教会のリーダーは〕自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です」(テモテへの手紙第一3章4節)
もし子どもたちが親を尊敬しなければ、おそらく先生のことも尊敬しなくなります。そのような子供は、給食のおばさんや通学路見守りの人など、いつもお世話になっている人にも感謝を示さなくなるかもしれません。大人になってからは、仕事の上司や、警察や法律までも見下すようになるかもしれません。
そのような子供は、神を愛し敬うことが難しくなります。
高齢者の世話をする
私たちは自分より弱い人たちに優越感を持ったり、人の弱みに漬け込んだりしてしまう傾向があります。外見の美しさや、財産や、権力を持っている人を褒めそやし、そうでない人々を見下してしまいがちです。
あなたは車いすの人にやさしく接していますか。車いす生活になった高齢者が少しでも長く家で生活できるように喜んで介護できますか。それとも、自分は忙しいし、手がふるえたり、耳が遠くなった人の介護をしたりするのは、自分には無理だと思っていませんか。
「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」(テモテへの手紙第一5章8節)
イエスの愛はいつも、弱い者に向かって流れています。イエスがいつも愛をもって仕えたのは、汚く、貧しく、病み、無知で、みじめで、無価値で、途方にくれた人たちでした。イエスはこうした弱い立場の人々に喜んで仕えました。そして、私たちもイエスのお手本通りに人々に仕えれば、必ず喜びがあると約束してくださっているのです。
改めてあなたの家族や親族のことを思い浮かべてください。今、あなたの助けを必要としている人は誰でしょうか。
3.私のコミュニティー
発展途上国に派遣された宣教師によると、こうした国々で福音をのべ伝えるには医療、農業研修、災害復興などの慈善活動を同時に行なう方が、より効果的だと言われています。
アメリカは今、ポスト・キリスト教社会です。かつてはキリスト教の価値観が主流だったのが、今はそうではないという意味です。私たちはキリスト教伝道のふり出しに戻ったと言えます。もしあなたがアメリカで伝道しているなら、自分たちがそのような状況の中で伝道するのだと認識していた方が良いでしょう。つまり、印象に残る話しをすることは大切ですが、純粋に喜んで人々に奉仕することによっても、み言葉をより力強く伝えることができるのです。
日本はどうでしょうか。日本のキリスト教会は、どのような状況に置かれていると思いますか?
良い事を全ての人に
初代キリスト教徒たちは、その誕生から約3世紀にもわたって迫害され続けてきました。皮肉なことに、キリスト教は迫害から自由な状況の中でももちろん繁栄しますが、大きな苦難に直面している時に、さらに発展することもあるのです。
紀元1~3世紀には、ユダヤ人社会とローマ帝国はクリスチャンという大きな力をみすみす取り逃していました。クリスチャンは実際、素晴らしい市民になるのです。私たちの神は、単に教会だけでなく、自分たちが住む社会をも大切に考えるように命じておられます。私たちを限りなく愛してくださる神は、私たちが周りにいるすべての人々を、クリスチャンではない人も含めて、愛するように教えておられるのです。
「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」(ガラテヤ人の手紙6章10節)
もちろん神は、私たちが教会の人々を大切に思うように望んでおられます。しかし、時には教会以外の場所の方が、人々によりよく仕えることもできるのです。クリスチャンが社会の中でキリストのようにふるまうなら、この世の人々の罪の代価を支払ったキリストに誉れをささげることになるのです。私たちがキリストのように純粋な心で人々を愛するなら、偽善的で批判的でお高くとまっている、というクリスチャンの悪い印象も打ち壊すことができるでしょう。
すべての人の奴隷となる
なぜ以前は増えていた教会のメンバー数が、最近は減ってきているのでしょうか。それは、周りのコミュニティーが教会の持つ力に気付いていないからかもしれません。あるいは、教会員が今までと同じような人たちを集めたいと思っているからかもしれません。
悲しいことに、社会がどんなに変わっても、人間の心は常に飢え乾いています。その飢餓感とは、孤独、うつ、罪悪感、病、そして恐れです。社会の中でこのような現状を見出し、キリスト教会内の愛情あふれたコミュニティーとのギャップに気付いた時、誰がそれに対応するのでしょうか。
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」(コリント人への手紙第一9章19節)
神を信じている者が対応するのです。つまり信仰の強い者が弱い者の言うことに耳を傾け、み言葉をよく理解している者が奉仕者となるのです。
教会が社会のニーズに進んで柔軟に応える時、教会には多くの仕事が与えられ、教会がその目的を失うことはありません。
上司に仕える
自分の信仰を教会の中だけにとどめておこうとするのは簡単なことかもしれません。教会の中では、クリスチャンらしく振る舞うことが当然だと思われているからです。しかし、家庭の中でキリスト中心の生活を送るのは、それよりも難しいことです。そして、職場でキリストのように仕える者として生活するのは、さらに難しいことです。
いくらクリスチャンであることを公言し、御言葉を伝えていても、あなたがどのように働き、同僚やお客さんに接しているかによっては、あなたの信仰が本物でないことは簡単にわかってしまいます。特にあなたが上司に対してどのような態度で接しているかはとても大切です。
「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています」(エペソ人への手紙6章7,8節)
英語にはIntegrityという言葉があります。この言葉は、①決まりや価値基準をよく守る、②完全で二心がない、という意味です。(日本語訳:誠実、高潔、完ぺき)喜んで仕えるということは、誰も見ていなくても正直で、よく働くということです。そしてそれは、神ご自身が一番良いと思う時期に、私たちに報いてくださるということです。
4.私の祖国
旧約聖書の歴史書や預言書には、イスラエル人とその祖国の関係についての多くの記述があります。これらが現代社会にどれだけ適用できるかをアメリカ人が理解するのは、少々やっかいです。
アメリカは決して新しいイスラエルではありません。旧約聖書にイスラエルが再建されるという預言がありますが、それはキリストを信じる者たちが現れることを示しています。アメリカ人は、神の特別な選民ではありません。神はアメリカを愛しておられますが他にも豊かに祝福された国はたくさんあります。私の住むこの国は神政国家ではありません。つまり、聖書がアメリカの法律ではありませんし、この国が神の御言葉に導かれながら政治を行なっているわけではないのです。
アメリカは神に豊かに祝福され、霊的な自由を謳歌できる国です。信仰の自由があり、自分の信仰を公に言い表すことができる国です。国境を越えて、宣教師やマスメディアを通じて御言葉を広める財源のある国です。仕える喜びを見出すことのできる国です。あなたの国はどうですか。
神の贈り物
2008年の大統領選挙では、当時のバラク・オバマ候補がエレミヤ・ライト牧師とのつながりが公になったことによって、個人的かつ政治的に不都合な状況に陥りました。ライト牧師が牧会している教会はシカゴにあり、非常にアフリカ系アメリカ人びいきだったのです。ライト師自身も教会でアメリカの過去(ライト氏によれば現在進行形)の人種差別について話す時は、アメリカを祝福することなく呪ってください、と神に祈ったほどこの国の差別思想に嫌悪感を持っています。
ライト牧師だけではありません。国の欠点や失敗をあげつらって、国をバカにし、笑いものにしたいと思っている人たちが少なからずいます。社会学者たちは最近の若い人たちは、政府を含むどんな組織にも信頼感を持っていないと言います。
使徒パウロは、人権が現代社会よりもずっと軽んじられている社会に生きていました。ローマ帝国は救い主イエスを十字架の上で殺すことを公に認めたくらいです。それでもパウロはこのように書き記しました。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ人への手紙13章1節)
様々な欠点を持っているにせよ、神が国々の設立をお許しになったのは、国がないことで起こる混乱や無政府状態を防ごうとされたからです。神がすべての国々を祝福してくださいますように。
政府に従う
国家よりも権威のある、神という君主に仕えているクリスチャンは、反政府的に思われるかもしれません。私たちはキリストに一番の忠誠を誓っているのです。私たちにとって聖書は、国の憲法よりも高い権威を持っています。
しかし、クリスチャンの王である神は、私たちが地上の政府に敬意を表し、政府に従うよう命じておられます。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」(ペテロへの手紙2章13-15節)
バビロン捕囚の時にバビロニアに連れて行かれたシャデラク、メシャク、アベデネゴの3人は自分の祖国を破壊した国に進んで仕えました。現代でも多くのクリスチャンがキリスト教を公に敵視する共産主義やイスラム教の支配下にある国々に住んでいます。このように、自分の信仰と大きく異なる政府であっても忠誠と協力の態度を持つことは、クリスチャンの評価を高め、神の祝福をもたらします。
クリスチャンは、政治的な改革者になるのではなく、人々にキリストの愛とゆるしを伝えるという使命を果たす方がずっとうまくいきます。
繁栄を祈る
ダニエル書7章によると、ダニエルは4つの帝国が約1000年間に渡って中東を支配するという幻を見ました。ダニエルが当時仕えていたバビロニア帝国は、幻の中で野獣として現れました。ダニエルは、祖国ユダ王国の軍隊がバビロニア軍に負けた時に、捕虜としてバビロニアの首都バビロンに連れて行かれました。この時、バビロニアの兵士たちは、神殿に納められていた礼拝用の品々を戦利品として自分たちの国に持ち帰ってしまったのです。
それでも、預言者エレミヤはバビロン捕囚について次のように書き記しています。
「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(エレミヤ書29章7節)
このように、イスラエル人は捕虜として連れて行かれたバビロンの繁栄を祈るように求められたのですから、私たちは、国のためにどれだけ心を込めて祈るべきでしょうか。個人の自由や宗教の自由が認められているのは、どんなに貴いことでしょう。私たちは祝福されています。主よ、感謝します!
税金を喜んで払う
自分で言うのも恥ずかしいことですが、私は税金を払うときに愚痴っぽくなります。あなたも、確定申告書を記入して税金を納める時に同じように感じたことがあるかもしれません。1世紀のイスラエル人もローマ帝国に税金を払うことにうんざりしていました。ある時イエスの敵は、よくあるこの市民感情を利用して、イエスが脱税をそそのかしていると思わせるような罠を仕掛けました。
「イエスは彼らの悪意を知って言われた。『偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。』そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。『これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、『カイザルのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい』」(マタイの福音書22章18-21節)
私は国営公園の雄大な景色を眺めるのも、高速道路を車で走るのも、信頼できる司法システムも全て好きです。、これらの素晴らしいものを維持するために、どうして私はもっと進んで自分に出来ることをしないのでしょうか。たぶん、単なるわがままでしょう。今年の確定申告の時はもっと良い態度でいることを約束します。
本当の住まいは天国にあります
良い市民でいることは、現代ではそれほど難しくはないかもしれません。しかし、人種差別が激しかった時代や、自分の信仰を持つことを禁じられている国で生活しなければならなかったら、あなたは良い市民でいられるでしょうか。
へブル人への手紙11章に登場するたくさんのヒーローたちは、孤独で寂しい信仰生活を送らねばなりませんでした。カナンに住んでいたアブラハムとサラや、エジプトに住んでいたヨセフについて考えてみてください。彼らが信仰を持ち続け、他の人々とうまくやっていくのを助けたのは、神の素晴らしい御言葉とその約束でした。彼らは苦難が一時的なものであることを知っていました。そして、後には神がすべてを益としてくださることを知っていて、どんな場所に置かれようと、神の役に立つように生きようと心に決めたのです。
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(へブル人への手紙11章16節)
私たちは、これは一時的な事だと分かっていれば、どんなことでも我慢することができるのです。もう少しだけ耐えてください。素晴らしいことが必ず起こります。
5.私の教会
神は多くの大切な目的のために教会を建てられました。礼拝を行ない、聖書を教え、学び、洗礼と聖さんの礼典を守り、聖徒が交わり、霊的に養なわれるためです。
教会生活のもっとも素晴らしい点の一つは、他の人に仕える機会が与えられることです。イエスは十字架にかかる前の夜に弟子たちの足を洗われました。これは命令ではなく、私たちがこれから取るべき態度を模範として示してくださったのです。
現代では、私たちは特に他の人の足を洗うことはありませんが、例えば他の人が使った食器を洗うなど、色々な形で、イエスのように喜んで他者に仕えたいという気持ちを表すことができます。誰かのために料理をする、子どもの世話をする、会計を管理する、送迎をする、雪かきをする、絵を描く、カードを送る、歌う、相談にのる、活動計画を立てる、IT関連の管理をする、庭仕事をする、など色々なことができます。
すべての国家と同様、教会も完璧ではありません。どの教会にも欠点があります。教会は、完璧に純粋で良い計画を考えることなどできない、罪人の集まりです。伝道においても、人を助けて癒すどころか、時には傷つけてしまうことすらあります。それでも、イエスは教会を通して、たくさんの良い事を成し遂げてくださっています。ですから、教会は大切な、愛すべき存在なのです。
王権の下の祭司としてふるまう
神は、私たちが宗教の消費者にならないよう願っておられます。神はあなたが、礼拝堂にただ座っているだけの人、とりあえず「宗教的な経験」をしている人、日曜礼拝の説教を聞いて映画の評論家のように、批評する人になって欲しくないのです。
キリストを信じる信仰に導かれた時、あなたは「王権の下にある祭司」の称号を頂き、神の家族の一員として招き入れられたのです。「王権の下にある祭司」とはどういう意味でしょうか。私たちの王とはイエス・キリストです。私たちは王に仕え、働き、神の言葉を伝える者です。どうか、その名にふさわしく行動してください。
「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」(黙示録1章5,6節)
リーダーたちを励ます
クリスチャンは、矛盾する二つの性質を持って生きています。私たちは罪人であり聖人です。また、自分の自由意志によって神に従う者でもあり、組織の権威のもとで活動する者でもあります。
またクリスチャンは、相反する考えをいつも持っています。世界はこれから何年も続くと考えると同時に、世界は明日終わるかもしれないと考えるのです。つまり、これから1000年先の世界を見据えて計画的に信仰の種まきをし、教会を建てるのと同時に、世界は明日終わるかもしれないとも考えながら生きるのです。
あなたの教会のリーダーが、どのような伝道計画を立てるかはそれぞれです。そして、その決定に対してあなたがどう反応するかによって、あなたが神をどのように思っているかが分かります。
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです」(へブル人への手紙13章17節)
牧師は、会衆の中からふさわしい人を選んでリーダーの役割を与えます。しかし、会衆がその導きに従おうとしなければ、リーダーは導くことができません。会衆には、リーダーに忠誠をつくし、協力することが求められています。
賜物を使う
長年テレビを観てきた私たちは、ドラマや音楽、スポーツ、政治などのパフォーマンスをただ眺めるだけの観客になってしまいました。教会の中にも、積極的な信者の活動を眺めながら、自分たちには何もできないと思い込んでいる会衆がいます。これは、とても残念なことです。あなたは、神の御言葉を人々に伝えるという祝福を、神から頂いています。また、私たち一人ひとりには、神の御心に沿う賜物も与えられているのです。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(ペテロへの手紙第一4章10節)
クリスチャンなら誰でも、できることが必ずあります。使徒パウロは、ローマ人への手紙12章で、全ての信者には、人々と分かち合うために神がお与えになった賜物があると書き記しています。
あなたの賜物が何か分かりますか。まず、あなたが得意なことは何か、友達に聞いてみましょう。そして、これなら誰かを助けたいと思えることを挙げてみてください。それがあなたに与えられた賜物かもしれません。
仕える文化を創り出す
教会は自分の賜物を探したり、発展させたり、使ったりするためだけの場ではありません。教会とは一般社会から距離を取って心を休ませる場でもあります。キリストの教えを学び、実らせる場所なのです。
マスメディアやヒップホップカルチャーや街の人たちは、自分を誇ったり自己主張したりすることを高く評価します。それに対して教会では、優しさを教えます。この優しさとは、単に都合の良い人になることではありません。人に仕えて自分の身をすり減らすことでも、安売りすることでもないことも教えています。それに加えて、暴力に訴えないこと、自制すること、人から奪うのではなく与えることが強さの証しであると教えているのです。
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(ペテロの手紙第一5章5節)
このような謙遜を家庭で身に付けてこなかった人が多くいます。彼らが教会で謙遜を学ぶことができるように、あなたも協力してくれませんか。
神からの報酬を待ちなさい
なぜ、妻と夫はお互いにもっと進んで仕え合わないのでしょうか。どうして教会員は教会活動を進んで手伝おうとしないのでしょうか。それは自分の時間とエネルギーを使うだけの見返りがないと思っているからではないでしょうか。
このような時こそ、教会のリーダーたちが指導力を発揮する時です。まず、必要な仕事を明確にし、ふさわしい人を探し訓練と励ましを与えて、絶えず感謝するのです。
神に属する人々は、たとえそのような働きをしてくれるリーダーがいなくても、仕える喜びを見出すことができます。また、同じ仕事を長い間押し付けられた上に、誰からも感謝されない時も同じです。私たちは いつも神のために働いていることを忘れずにいましょう。神の仕事は無益になることは決してないのです。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(ペテロへの手紙第一5章6,7節)
神はいつも報酬を与えてくださいます。必ずです。